赤崁楼は1652年にオランダ人に創設されたもので、もとはプロビンティア城(オランダ語で永遠の意味)と言われていましたが、のちに中国人に「赤崁城」、「番仔楼」、「赤毛楼」などと呼ばれるようになりました。明代、清代、日本統治時代と長い歳月を経ているものの、昔ながらの風貌がほぼ保たれています。オランダ人により占拠されていた時代から行政要所とされ、1661年に鄭成功がオランダ人を駆逐した後、プロビンティア城を首府に制定しました。清代初期、台江が土砂で閉塞される前、赤崁楼のすぐそばまで波涛が達し、「赤崁の黄昏」は当時有名な台湾八景の一つでした。赤崁楼の前には外地から運ばれ、清代に造られたという9基の石亀駄碑があります。伝説によれば石亀は龍が生んだ9人の子の一人で、重責を負わされていたため、亀の形にされたといいます。また、「断足の石馬」像は石馬が妖怪に化けて悪さをしに夜な街へ出てくるため、足を切られ現在の姿になったという話が伝わっています。時が経ち、赤崁楼は人による破壊とずさんな管理により次第に倒壊していきました。オランダ風の建物に中国風建築が加えられ、観音菩薩などの神明が奉られていた時期もありました。日本統治時代には陸軍の衛戍病院として利用され、改築や修繕の手が加えられました。台湾が主権を取り戻してからは木製だった建物が鉄筋コンクリート構造に変えられ、主な入り口の方向も変更されて、現在の様子を呈しています。
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